ARTE STILO 誕生
2024年4月13日、パン屋さんで立ち話をしていて、とても当たり前のことにあらためて気づきました。
パン屋さんに立ち寄るのは、丘に位置する公園内の森の中を歩いたあと、その帰り道と決めています。この日、森の中でも気持ちのいい場所、小鳥が沢山いる場所で足を止め、しばらくその空間を眺めていました。日本の森は高木から下草まで、何段階かの階層があることを再認識しました。そこを通り過ぎて、しばらくして、「あっ、そっか!日本の街の景観はそれに似ている!」と思ったのでした。
日本の街並みはごちゃごちゃしています。パリやロンドン、ニューヨークなど欧米の整然とした街並みとはかなり違います。香港などは日本よりもさらにごちゃごちゃに見えます。そのごちゃごちゃをどう受けてめていいものか・・・と、ずっと、30年くらい、頭の中でもやもやしていたのが、「森といっしょ」という落としどころを発見して、とてもすっきりしました。
パン屋さんで話していたのは、ミツバチの話。日本ミツバチと西洋ミツバチは習性が違う。云々。話をしているうちに、きっと「その違いは、自然環境の違いから生まれたんじゃない!?」と。
日本の街と欧米の街の雰囲気の違いは、無意識レベルできっと自然環境の影響を受けているのだろうと、頭の中で、自分なりの整理をしたのでした。
もうひとつ重要な要素があります。私たちの脳は目から入った情報は、たいてい、全体像というよりは、断片化して認識しているということです。そのことを逆手にとって、視覚(情報)を断片の集まりとして、ARTE STILOでは表現しようと試みています。(昨今ニュース等で、政治家の問題などで「きりとり」と言う言葉を聞くようになりました。発言の意味の全体像ではなく部分的に切り取って問題視しているのではないかということを指しています。・・・どんな人もバイアスがあり、多かれ少なかれ「きりとり」をするのが普通です。・・・昨今の「きりとり」はまるで言葉狩りの様相になっています。一見情報を断片化することは、不当に感じるかもしれませんが、実際はそのようにしか人はものごとを認識できないということを含意しています。特定の誰か、問題、事案に対する批判的意味はありません。)
昨年、ニューロサイエンスの科学者ボー・ロットの『脳は「もの見方」で進化する(原題『Deviate』)』を読んで感嘆しました。本の趣旨は、原題の「Deviate」(逸脱)という語がヒントになります。「常識を疑うこと」つまり、いつも考えているような方法で考えるのをやめ、逸脱することで変化に適応しやすくなる。というようなことを述べています。ロットによれば「人の眼は見ていない」「情報そのものに意味はない」「意味を生成しているのは脳だ」、そして、人が見たと思ったことのうち、実際に視覚から入ってきた情報が貢献する割合は10%で、残り90%は脳が創作していると述べています。
エンサイクロペデイアBritanica のWEB版、「Physiology」の項目(>>>こちら)によると、ヒトの脳は毎秒11,200,000bitの情報を受信しています(うち視覚は10,000,000bit)。しかし、人の意識が認識できるのは50bitと書いてあります。
人が認識できるのは情報全体の4ppm程度です。
私たちは情報を断片から想像し、過去の経験値と合わせてものごとを認識します。だから、ロットの言う「人の眼は見ていない」という認識は的を射ているように思います。
逆に言うと、私たちは断片を見て判断している可能性が高いのです。
ボー・ロットの理論を知りたいと思ったのは、神田房枝の『知覚力を磨く』の重要な点の引用元がロットの『Deviate』だったからです。神田の本はそうした科学者の研究を下敷きに、知覚構造、プロセスを紹介しています。
秋田麻早子の『絵を見る技術 名画の構造を読み解く』にも出てくる研究報告が神田の本にもでてきます。美術鑑定や美術史の専門的な教育を受けていない人は、たいてい、日常的に目を動かす範囲が狭い。絵画を前にして目線がどこをたどるかを計測してみた実験結果がでています。それを見ると、ヒトの眼が部分的にしか見ていないことがよくわかります。
おそらく、そうした傾向は文章を読むときにも似たようなことが起きるのだと思います。本を一冊読んで、印象や記憶に残るのは30%程度だと言われます。どの部分が印象として残るのかは人によって違います。自分自身、過去に読んだ本を読み返してみて、本全体の印象が変わることもあります。
そうした、人の認識の生理を意識することが、近代以降「リアリティ」ということばで表されたきた物事を、また違った角度で感じ、考えるきっかけになるのではないかと思います。
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